2024年12月に三重県鈴鹿市で発生した、コンビニ店員に対する凄惨な刺傷事件。28歳の無職の男が、顔見知りであったはずの店員を執拗に襲い、たった1箱のたばこを奪って逃走したこの事件は、日本中に衝撃を与えました。
逮捕された男が供述した「人を殺せば楽になると思った」という言葉。私たち一般の感覚からは到底理解しがたいこの論理の裏には、現代社会が抱える闇と、孤立した人間が陥る特異な心理状態が隠されています。
本記事では、プロのファクトチェッカーの視点から、事件の概要を振り返るとともに、犯罪心理学の観点から「なぜ人を殺すことが『楽になる』という思考に結びつくのか」を深く掘り下げて解説します。
まず、改めて事件の事実関係を整理しましょう。この事件は、2024年12月16日午後11時ごろ、三重県鈴鹿市岡田1丁目の「ファミリーマート鈴鹿岡田一丁目店」で発生しました。
【事件の経緯】
逮捕されたのは、現場近くに住む当時28歳の無職、水谷恒青被告です。水谷被告は店内に押し入り、レジにいた20代の女性店員に対し、持参した包丁で首や背中など数箇所を執拗に突き刺しました。その後、たばこ1箱を奪って逃走。女性店員は重傷を負いましたが、命に別状はありませんでした。
【特異な供述】
警察の取り調べに対し、男は「殺そうと思って何度も刺した」と強い殺意を認めたほか、動機について「仕事が見つからず、生活が苦しかった」「人を殺せば楽になると思った」といった趣旨の供述をしています。この「楽になる」という言葉が、この事件の異常性を際立たせています。
犯罪心理学において、このような供述をする犯人の心理には、共通したいくつかのパターンが見られます。なぜ彼らは、最悪の犯罪行為を「解決策」として選択してしまうのでしょうか。
無職で経済的に困窮し、身寄りもない、あるいは家族との関係が破綻している人間にとって、社会での生活は「終わりのない苦行」に見えることがあります。明日の食事や家賃の心配、世間からの冷たい視線に晒され続ける中で、彼らは自暴自棄に陥ります。
このとき、彼らの目には「刑務所」が衣食住を保証してくれる場所として映ります。「人を殺す(または重大な事件を起こす)」ことは、自由を失う代わりに、社会生活における一切の責任や不安から解放されるための「入所チケット」を手に入れる行為、すなわち「楽になるための手段」へと変換されてしまうのです。
自分一人で死ぬ勇気はないが、人生を終わらせたい。そうした心理が、他者を巻き込む形で爆発するのが「拡大自殺」的心理です。「どうせ自分の人生は終わりだ」という自暴自棄な感情が、社会への強い復讐心(ルサンチマン)と結びつくと、「最後に派手なことをして、自分もろともすべてを壊してしまいたい」という思考に陥ります。
この場合、ターゲットは誰でも良い「無差別」なものになりやすく、今回の事件のように「身近で顔を知っている存在」であっても、加害者の目には「幸福な社会の象徴」や「自分をないがしろにする世界の象徴」として映り、攻撃の対象となってしまうことがあります。
追い詰められた人間の一部は、自分の不遇を社会や他人のせいにすることで、精神的な安定を保とうとします。「自分が苦しいのはあいつらのせいだ」という歪んだ正義感に基づき、人を殺めることで一時的に自分が「運命を支配する側」に立ったような錯覚(万能感)を覚えることがあります。
刺すという行為そのものが、蓄積されたストレスの爆発的発散となり、その瞬間だけは苦痛から解放される(=楽になる)と感じてしまう。これは非常に未熟で自己中心的な感情の処理形態ですが、孤立した環境では、このような認知の歪みが修正されずに肥大化していきます。
この事件で特に痛ましいのは、犯人がコンビニの常連客であり、被害者の女性店員も犯人の顔を認識していたという点です。
通常、顔見知りであれば、多少の心理的ハードルが働くものですが、水谷被告のようなタイプにとって、常連であることは「相手が自分の存在を(客として)受け入れている」という甘えや、逆に「自分の情けない姿を知っている存在」としての憎悪の対象に変わる危うさを孕んでいます。
自分を認識している相手を襲うことで、「自分の存在を刻み込みたい」という歪んだ承認欲求が働いていた可能性も否定できません。被害者からすれば、日常の接客の中で接していた人物が突然、殺意を持って襲いかかってくるという、想像を絶する恐怖であったはずです。
事件から1年以上が経過した2026年現在、こうした「刑務所志願型」の犯罪や、孤立した若者による凶行は、依然として社会的な課題となっています。SNSの普及により、見かけ上の繋がりは増えた一方で、真の意味で「助けて」と言える場所を持たない「孤独な孤立」が深まっていることが背景にあります。
【社会に必要な対策】
三重・鈴鹿のコンビニ刺傷事件の犯人が語った「楽になる」という言葉は、死への誘惑でもあり、生への極端な投げやりでもありました。しかし、彼が求めた「楽」の代償は、罪のない女性店員の肉体と精神に消えない傷を負わせ、自身の人生を真の意味で終わらせるという、救いようのない結末でした。
私たちは、このような事件を単なる「狂人の犯行」として片付けるのではなく、その裏にある孤立、困窮、そして認知の歪みを直視しなければなりません。二度とこのような悲劇を繰り返さないために、社会全体で「孤独」への包囲網を築いていく必要があります。
※本記事は2026年2月8日現在の最新情報および過去の確定した裁判資料に基づき執筆されています。